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第五話 覚醒
-return to the light-
1.
右も左も、前も後ろも闇に包まれている。入り口からずっと左手で壁づたいにここまで降りてきたが、
いつ終わるとも分からない長い階段を、わたしは未だにぽつぽつと下り続けている。
べそをかきながらも、必死に先を目指す。
そこにはなぜかお兄ちゃんが待っていてくれる、そんな気がしてならなかった。
5歳のわたしにとっては、階段一段を下りるのも一苦労だ。
なにせ前も後ろも真っ暗なので、バランス感覚を保てず、何度も前へつんのめりそうになった。
だからゆっくりとしか降りることができず、ずいぶんと時間が経ったかに思えたが、
実際にはそんなに進んでいないのかもしれない。
この先に何があるのか、わたしは知らない。
お父さんもお母さんも話してはくれない。お兄ちゃんも話してはくれない。
わたしは仲間外れにされたという先の考えはとうに消え、
今はこの先に何があるのかに興味を奪われていた。
だが何もなかったら。どれだけ進んでもずっと闇で、
入り口に戻ることもできず、出口に辿り着くこともできないとしたら。
わたしはずっとこの闇の中に閉じこめられるのだろうか。
誰もわたしを見つけてはくれず、死んで魂だけになっても、ここから抜け出せなかったとしたら。
怖い考えばかり頭をよぎり、立ち止まって泣き喚きそうになる。
わたしは必死に頭の中のもやもやを打ち消し、楽しいことを考えようとした。
そう、例えばこの先には地上では見ることもできないような、綺麗な花畑が広がっているとしたら。
それは、大人にならないと見てはいけないものなのだ。
だからお父さんもお母さんも、わたしには入ってはいけないと言っていたのだ。
もし子供がその花畑に迷い込むと、悪い魔女が魔法をかけて、その子供を一輪の花に変えてしまう。
だが、もし花に変えられてしまっても、花の国の王子、わたしにとってはさしずめお兄ちゃんだろうか、
その誰かが助けに来てくれる。
そんなことを考えているとわくわくしてき、怖さも和らいでいった。
そして、気がつくとずっと先に、小さな光が静かにわたしを待っていた。
階段を下り終わる前に、そこに現れた機械類が目についた。
いつしか花畑が広がっていると思いこんでいたわたしは肩を落として、なあんだといった気分になった。
いつもお父さんやお兄ちゃんが面と向かい合っている機械は、わたしにとってもすっかり見慣れたものだった。
部屋の広さはさほど大きくない。その中に中央に向き合う形で機械類がずらりと並んでいる。
だが、一つわたしの興味を引く物があった。
部屋の中央に向かって少し段差になっており、もっとも高い位置、部屋の中央にはわたしの肩ほどの台座があり、
その上にはなんと光の玉がふわふわと浮かんでいるではないか。
花畑はなかったが、ここはやはり魔法の国だったのだ。
その光は時に強く、時に弱く瞬き、ずっとみていると目がちかちかしそうだった。
わたしはそこから辺りを見回してみる。
隣に備え付けられた機械の表示板には漢字でなにか書いてあったが、
わたしはひらがなしか読めないので、到底意味が理解できなかった。
他にもいくつか、赤や青のランプが点灯していたので、これらも動いているのだと分かった。
わたしは光の玉に触ってみたくなった。一体どうなるのだろう。
もしかしたら熱くてやけどするかもしれない。
けど、もしかしたら魔法の力が手に入るかもしれない。
幼いわたしは嫌なことより楽しいことを尊重して考えてしまうので、
きっと後者だと勝手に思いこんだ。
突然、となりの表示板のランプが光り、メッセージが流れ出した。
びっくりしたわたしはあわてて台座を掴む。その中にはひらがなも混じっていたが、
ほとんどが漢字だったので、やはり意味は分からなかった。
すると、今度は光りの玉が強く光り出した。
今度は顔を背けるほど光り輝いている。
わたしは薄目を開けてそれを眺めていた。
わたしを呼んでいる。そんな感じがした。
きっと、この光の中には別の世界が広がっているのだ。
この光がその世界とこの世界を繋ぐ唯一の扉なのだ。
きっとこの先には妖精もいる。ペガサスもいる。
悪い魔法使いもいるかも知れないが、わたしを助けてくれる王子様もきっといる。
わたしは両手を開いて、小さな手の平で光を救いあげた。
途端に意識がなくなり、その場へ倒れ込んだ。
光は徐々に輝きを失い、いつしか人の形に収束して、わたしの脇に倒れた。
わたしと同じくらいの重さ、同じくらいの身長、姿形もわたしそっくりだった。
部屋の中には二人の少女だけが取り残された。そしてそれきり、わたしは二度と目覚めることはなかった。
2.
圭一さんの講義は割と人気があり、講義終了後も個人的な質問が後を絶たなかった。
それはそれで嬉しいのだが、その日も何人もの学生が質問に来たので、
危うく次の講義に遅れそうになってしまった。
隣の校舎へ早足で歩く。丁度裏口から入ろうとすると、
その入り口付近に黒い服を着た男が背をもたれかけて立っていた。
格好、そして見た目から学生ではない。自分よりもやや年上で、外人に見えた。
きっと英語教師か何かだろうと思いながら、その男の出す異様な雰囲気を感じた。
あまり関わらない方が、今後のためでもあると思い、そのまま素通りするつもりだった。
だが、圭一さんが近づくと、その男も圭一さんに気づき、こちらへ歩き出した。
不思議に思い、その男をみる。目線は確かに自分に向けられている。
わずかに鼓動が高まるを感じた。
「河上先生。」
男は言った。流ちょうな日本語だが、日本人のそれではないことはすぐにわかる。
「はい、何か。」
こうなると無視するわけにはいかないので、仕方なく返事をする。
歩みを緩めたが立ち止まることはせず、あまり近づきすぎないようにした。
「お忙しいところ失礼ですが、少々お話があるのですが。」
「次の講義がありますので。ご都合が付くのなら、4時限目の終了後ということではいけませんか?」
顔を背け、真っ直ぐ前を見ながらぶっきらぼうに答えた。
大体名乗りもせずにいきなり用がある、という不自然さから、易々と話に乗ってはいけないと判断した。
あと一歩で校舎へ入る、という時に、男はまた話しかけた。
「『レガシー』、この言葉を知っているでしょう?」
立ち止まってから「しまった」と思った。
一度立ち止まってからまた知らぬ振りをして歩き出せば余計に怪しまれるだけだ。
「やはりご存じのようですね?」
圭一さんは入り口から離れ、男を直視した。
その顔はいつもわたしに見せる優しい顔ではなく、鋭く険しい顔だった。
男はにやりと口元を曲げ、圭一さんへ近づいた。
講義が終わるとそれまで教室に押し込められていた学生達が一斉に動き出し、
廊下はもちろんのこと外ですら身動きできないほどに混雑する。
相変わらず、これだけの人数が狭い校舎に密集していたとは思えないほどの量である。
わたしと凛ちゃんは3時限目で終わりだったので、
慌てずに人の流れが穏やかになってから教室を出ることにした。
だいぶ大学を休んでいたので、勉強にはついて行けないところもいくつかあった。
しかし、わたしに比べて凛ちゃんはどの教科もできるので、分からないことは凛ちゃんに聞くのが一番だ。
今日の帰りにも早速いくつか聞こうと思っていた。
だが、今日の凛ちゃんはいつもとどこか違っていた。
わたしが話しかけてもどこか空返事で、他のことに意識を奪われているような印象だった。
凛ちゃんは他人と話すこと自体好きではないようだが、話しているときはそれを鬱陶しがったりせずに、
きちんと聞いてくれる人だった。
嫌われるようなことを言った覚えもなし、第一先ほどまでは教室で普通に接していたはずだった。
「どうしたの、凛ちゃん。なんかさっきから変だよ。」
わたしは疑問に思って直接問いかけた。
凛ちゃんはぴくりと反応しこちらを一瞥したが、また前を見据えて険しい表情になった。
「誰かにつけられてる。」
突然言われたことにわたしは理解できず、「え?」と聞き返してしまった。
今度は凛ちゃんはわたしの方を見ながら言った。
「誰かにつけられてる。大学出た辺りから。後ろから見張られてる。」
思わず「うそっ!」と言って振り返りそうになるが、
凛ちゃんに肘をつかまれ「だめ、気づいてないふりする」と止められた。
尾行されてる?いまいち信憑性のないことだった。凛ちゃんの勘違いかも知れないし、
もしかしたら他の人の尾行かも知れない。それはそれでまた別の問題が起きてくるが、
とりわけ自分には尾行される理由など皆目なかった。
とすれば凛ちゃんだろうか。わたしが知っている限り、凛ちゃんにも尾行される理由なんて聞いたことがない。
ただ、突然のことにわたしは慌てていた。凛ちゃんは平然と歩いている。
「どうするの、凛ちゃん」と、心配になって聞いてみた。
「だから、気づいてないふりをする。
多分、つけられてるのは遥歩のほう。
凛も遥歩の家までついていく。」
それだけ言うとまた黙り、速度を速めず緩めず、駅への道を急いだ。
電車から降り、駅を出た。人はまばらで、つけてくればすぐに分かりそうだ。
わたしと凛ちゃんはいつもの商店街を越え、マンションへ向かった。
マンションまであと少しというところで、凛ちゃんはまた口を開いた。
「いい、遥歩。最後の曲がり角を曲がってマンションの入り口まで行ったら、
マンションに背を向けて立って待つ。凛は遥歩の後ろに立つから。」
「えええ、ちょっと、凛ちゃん。わたしやだよ、逃げ込んだほうがいいって。」
「それじゃあ敵の正体が分からない。」
あわてふためくわたしとは裏腹に、凛ちゃんは真剣そのものだった。
こんなたちの悪い冗談をいう子ではないことは分かっていたので、
わたしもいよいよ緊張してきた。
「じゃ、じゃあ、何でわたしが前なの?」
「それも作戦のうち。」
最後の曲がり角。ここまで来ると通行人はほとんどいなくなる。
案の定、今日も見渡す限りわたし達だけだ。
民家はひっそりと静まりかえり、わたしの緊張を煽った。
「さっきから何のようですか?」
わたしは凛ちゃんに言われたとおり、なるべく強がったような口調で、見えない相手に向かっていった。
恐怖と緊張とで声が震えてしまったが、割と大きい声が出たほうだ。
当然、誰も現れないものと思っていた。そう願ってもいた。だが、
いつかみた黒服の男、アイバーと一緒にいたあの女性が角から現れたとき、
わたしは飛び上がりそうになってしまった。
「気づいてたの。意外と鋭いのね。」
女はカツカツとかかとをならし、ゆっくりと近づいてきた。
背中を凛ちゃんに突かれて、あわてて「近寄らないで」と叫んだ。
女は立ち止まり、サングラスを外した。あの時と同じように黒のスーツに身を包み、
長い金髪は歩くたびにわずかになびいた。
美しいコバルトブルーの瞳で、それでいて鋭く冷たいまなざしを投げかけられ、わたしはまたたじろいだ。
だが、好都合ではないか。わたしとしても、彼女らに聞きたいことはある。
しかし問題なのは、なぜ彼女がわたし達をつけてきたかということだ。
「そちらの女の子はあなたのお友達かしら?」
女が先に切り出した。わたしは「そうよ」とそっけなく答える。
「ふふ、そんなに必死にしがみついちゃって、可愛いこと。」
女はあざけるように言ったが、そんな凛ちゃんをどこか鋭い視線で見ていた。
一挙一動も見逃さぬといった、鋭い視線だ。
しかし、これで女はやはりわたしをつけてきたということが明らかになった。
「この間のアイバーって男の人といい、あなた達は一体何者なの?」
今度はわたしから訊いた。相手のペースに乗せられてはダメだ、と凛ちゃんに言われていた。
「あら、紹介が遅れてごめんなさい。あたしはレベッカ。
アイバーと一緒にある犯罪組織を突き止めようとわざわざ日本へやってきたのよ。」
そういうと、レベッカと名乗る女は煙草を取り出し、火を点けた。
凛ちゃんは相変わらずわたしの背中に隠れて、顔だけ出して成り行きを見守っている。
「犯罪組織……それとわたしと、何の関係があるの?」
「あなたは関係ないわ」そういうと煙を深く吸い込み、ゆっくりとはき出して続けた。
「関係があるのは河上圭一の方。」
「ふざけないで!」
思わず前へ進み出ようとしたのを、凛ちゃんに引き留められた。
仕方なくその場で拳を握りしめながら言った。
「どうして圭一さんがその犯罪組織と関係があるの。
圭一さんとはずっと一緒にいたからよく分かる。
いつもは大学の先生をやってて、たまに学会で東京の方へいってるけど、
犯罪なんて人聞きの悪いことに関わったことは一度だってない。」
「ふふふ、あなたは本当に何も知らないのね。」
レベッカはくつくつと笑いながら、いきり立つわたしを哀れむかのように見つめた。
「何を知らないっていうの?あなたなんかにそんなこと言われたくない!」
わたしも思わず反発してしまう。凛ちゃんが後ろで「遥歩、押さえて」と囁く。
「それじゃあ聞くけど、あなたは河上先生の本当の名前をご存じかしら?」
「本当の、名前?」
思ってもみなかった質問に、わたしは先ほどまでの怒りを忘れて立ちつくしてしまった。
「そう、本当の名前よ。本当の年齢も知らないでしょう。
彼がなぜ大学で助教授をしているか、なぜあなたをかくまっているのかも。」
何を言っているのかと言い返したかったが、
わたしにはレベッカの言うことが全て偽りであると断言することはできなかった。
圭一さんは昔のことはほとんど話してくれない。だから、今のが嘘か真かを判断することは、
わたしには到底できっこない。
わたしは圭一さんを知らなすぎる。そんなことはもうずっと前から分かっていたはずなのに、
わたしはそれが当然だと言わんばかりに全てを受け入れてしまっていた。
悔しかった。自分と圭一さんとの関係を否定されたようで、我慢できなかった。
「本当も何も、今の圭一さんが圭一さんの全てよ。
でたらめなこと言わないで!」
怒りにまかせて凛ちゃんを振り切り、レベッカに駆け寄った。
だが、わたしが駆け出すとほぼ同時に、スーツの裏から拳銃を取り出し、わたしに照準を合わせた。
わたしはその場で立ち止まった。むやみに突っ込んでいっても勝てる相手ではないことは分かっていた。
慌てて凛ちゃんが後ろから駆け寄ってきた。
「勘違いしないで頂戴な。
あたしは別にあなたとけんかをしに来たわけじゃないのよ。」
レベッカは左手で持っていた煙草を落として、靴でもみけした。
「あんたは一体……?」
先ほど4時限目の始まる鐘がなり、表通りの通行量はまばらになった。
講義が終わってすがすがしい気分になった学生達がにこやかに歩いているかと思えば、
遅刻しているにも関わらずのろのろと歩く学生もいた。
そんないつもの風景を、圭一さんは茂みの中から眺めながら言った。
「俺はとある事情で日本へ調べ物に来ている、アイバーってものだ。」
アイバー、どこかで聞いた名だと気づき、必死に記憶の中から探し出す。
わたしから聞いた怪しい男の名だということはすぐに思い出せた。
圭一さんはもう一度男をみた。体格では明らかに向こうの方が勝っている。
とっくみあいになったらまず勝ち目はないだろう。
さらに、わたしの証言が正しければ、彼は拳銃も持っているはずだ。
迂闊に取り合わずに、ゆっくりと話を進めることにする。
「調べ物というのは?」
「分かっているくせに、まだるっこしい奴だな。」
「『レガシー』についてか?」
アイバーはこくりと頷いた。
「なぜ調べてるんだ?」
「そこまで話す必要はない。」
『レガシー』についてはとことん沈黙を守ってきたはず。
だのに知っているというからには、この男も関わっていたか、
もしくはずば抜けた諜報能力を持っているということだ。
となれば、『彼女』の存在も知られている可能性が高い。
「どこまで分かったんだ?」
「そんなことはどうでもいい!」
アイバーは突然声を荒げ、圭一さんの正面に立ち、いきり立った目つきで見下ろした。
「俺はお前に尋問されるために来たんじゃない。
俺はただ今のお前の周りの状況を知りたいだけだ。」
わたしなんかでは腰を抜かしてしまいそうな程の威圧感だったが、
圭一さんは微動だにせず、アイバーの顔を見返した。
「残念だが、俺も詳しいことは分からない。
主任だった夫婦が大神災、数年前に起こった大地震で亡くなってしまってね。
それ以来、研究は当時のまま、手つかずで滞っている。」
「嘘をつくな。」
アイバーはにやりと口を曲げ、あごひげをしゃくりながら言った。
「調べはついてるんだよ。お前がこのアカデミーのどこかで、その研究を続けているってことは。」
圭一さんは背中にじっとりと汗を掻いていた。ごくりと生唾を飲み込む。
一体どうやってこの男はその情報を掴んだのか。
大学で研究を続けていることまでばれているのなら、残された時間はもう少ない。
「3号館のセキュリティは万全だったはずだ。なぜそこまで知っている?」
「ほう、3号館ね。」
鎌を掛けてみたのは正解だった。こいつはまだ実験施設の場所を知らない。
だが動くなら早いにこしたことはない。いつ地下の実験室が割れるか分からないからだ。
「そこまで知っているのなら話そう。確かに、俺はここで実験の続きをしている。
だからなんだ?俺を捕らえるのか?捕らえたとしても証拠がないんじゃあっという間に釈放されるだけだぞ。」
「別に捕らえようって気はない。
俺たちが欲しいのは『レガシー』の研究施設、それと技術書だけだ。」
「悪いが、あれを譲る気はない。
それに、研究ももう終わりにしようとしていたところだ。」
圭一さんはふうっと息を吐いた。どうやってこの場をやり過ごすか。
「俺が『レガシー』の研究に着手したのも、単なる興味本意からだった。
そう、あんなもの、後の世に伝えてはいけないんだ。
人の命なんて、そう簡単に操っていいわけがない。」
「まあなんとでもいいな。お前の言い分は関係ない。
お前が続けないんなら、俺たちが代わりに続けるまでさ。」
「やはりそうか。なぜあれを欲する?」
「ものは考えようさ。利用方法次第で、いくらでも金になる。」
ただ金のために……。居たたまれない気持ちになる。
だが、すべては自分の所為。自分で解決しなくてはならない。
「やはり、あんたに譲ることはできないな。
講義があるんだ。そろそろ、俺は行くよ。」
そう言って、アイバーの脇をすり抜けた。食い止められるかと思いきや、
あざ笑うかのように一言発しただけだった。
「仕方ないな。今もう一人の仲間がお前のプリンセスとコンタクトを取りに行っている。
大切な姫君が関わるとなれば、気が変わるだろう。」
慌てて振り向くと、アイバーは大きな背を向け、茂みの中へ消えていってしまった。
圭一さんは背筋が凍りつくのを感じた。
「あなたには人質になってもらう。悪く思わないでね。」
最初アイバーと会ったときにも、『いい取引材料になる』と言われた。
どうやら彼女らとわたしは間接的にしか関係がないらしい。
それでいて、一方的に人質になってもらうなんて言われたら、たまったものではない。
レベッカは一歩近づいた。
「良い子にしてれば危害は加えないわ。さ、こっちへいらっしゃい。」
「遥歩、行っちゃだめ」と、凛ちゃんが囁く。言われなくてもそのつもりだったが、
この状況を打開する策は何もなかった。
頬を一滴の汗が流れる。
「お嬢ちゃん、何をしてるの?」
レベッカは動きを止め、突然ぴしりとした声で言った。
一瞬意味が分からなかったが、どうやら今の言葉はわたしに向けられたものではなかったようだ。
「バッグから手を出しなさい。」
拳銃の照準が凛ちゃんに合わせられる。わたしには見えなかったが、
どうやら凛ちゃんには考えがあるようだった。
思えば、この陣形を作ったのも凛ちゃんだった。
「遥歩は渡さない。」
凛ちゃんは低い声で言った。いつもの凛ちゃんとは別人と思えるかのような、
ぴりぴりとした空気がわたしたちを包んでいた。
また一歩、レベッカが近づいた直後だった。
わたしは勢いよく左へはねのけられた。
次に映ったものは、凛ちゃんがバッグから放り投げた小さな物体が中を舞い、
飛び退く凛ちゃんと一発の銃声が聞こえた。
小さな物体は地面に着地すると、ものすごい勢いで濁った煙を吐き出した。
もう一度銃声が聞こえる。わたしは何がなんだか分からず、恐怖で頭を押さえてしゃがみ込んでいた。
すると片方の手を取られ、「逃げる!」と凛ちゃんの声が聞こえた。
すでに辺りは煙が充満している。
マンションの3階まで駆け上がり、路上を見下ろした。
煙は2階くらいの高さまでもくもくと広がっていたが、次第に勢いが衰え、風に流されて辺りへ充満しだした。
あたりからは何事かと人が集まってくるのが見える。
その中で、細い脇道から一台の車が猛スピードで発進するのが見えた。
乗っていたのは間違いない、レベッカだった。
隣で凛ちゃんが「危なかった」と呟くと、ようやく助かったことに気づき、
わたしは凛ちゃんに抱きついて泣き崩れてしまった。
3.
家の中へ入ると同時に、電話が鳴り出した。
びくびくおびえるわたしにかわって、凛ちゃんが受話器を取った。
何度か相づちを打ち、一言二言発すると、すぐに受話器を置いた。
「先生から。なんか慌ててたけど、遥歩と一緒って言ったら安心してた。」
わたしは胸をなで下ろす。てっきりレベッカか、その仲間かと思ったからだ。
「あまり家の外には出るなって。」
凛ちゃんはそのままソファに座り込む。
「言われなくても、出たくなんかないよ。」
わたしは二人分の麦茶を注いで居間へ戻った。
コップをテーブルの上に置くと、わたしもどかっとソファに身を投げる。
「まったくもう、なんだっていうの。犯罪がどうの、圭一さんがどうの、
その上わたしを人質にするだの……。」
さっきまでべそをかいていたのに、今はもう憤りでいっぱいのわたしを、凛ちゃんは静かに眺めた。
「ところで凛ちゃん。さっきの、一体なに?」
麦茶をすすりながら、間の抜けたような声で「何が?」と聞き返す。
「一つしかないじゃない。さっきの煙幕みたいのだよ。」
「ああ、あれ。そう、煙幕。」
「なんであんなもの持ち歩いてるわけ?」
立て続けに聞くと、凛ちゃんはどこか間が悪そうに俯いてしまった。
こんな凛ちゃんは初めてだ。麦茶をテーブルに戻し、「まあいろいろあって」と取り繕うように言う。
そんな凛ちゃんを、わたしはこれ以上言及できなかった。
「でもまあ結果的に助かったし、いっか。それに、嬉しかったよ、さっきの。」
凛ちゃんはまた「え?」という風に振り向く。
「『遥歩は渡さない』ってやつ。今日の凛ちゃん、なんだかかっこよかった。」
わたしはにっとえくぼを作ってほほえみかけた。凛ちゃんも今度はにっこりと笑って、言った。
「遥歩は渡さない。誰にも。」
この季節では4時限目が終わる頃には、辺りは薄暗く、闇に包まれてくる。
普段なら遅くまで残っておしゃべりをしている学生も、今の時期ではまばらとなる。
噴水前のベンチもがらがらだ。そんな中、圭一さんと今野先生は、一番端のベンチに揃って腰掛けていた。
「……と言ったところだ。今野さん、何か心当たりは?」
実験のことが外部に漏れていると聞かされた時は、いつもクールな今野先生も目を丸くして言葉を疑った。
だが、圭一さんが先ほどあったいきさつを話している間に、すでにいつもの今野先生に戻っていた。
「いえ、私は何も……。」
実際自分が犯人だったとしても、はいそうですと自供するはずはないことは圭一さんも十分承知だったはずだ。
それでも相談したのは、今野先生が圭一さんの次に優秀な技術者だったし、
仲間内ではもっとも頼れる人物だったからだ。
実験の伝言は、すべて今野先生をとうして、他の研究者にも知らせていた。
「やはりそうか。しかし、今問題なのはそんなことじゃない。
……今野さん、『覚醒』の許可を出す。」
「……はい。」
「実験の統計結果は?」
「不都合は見当たりません。ラットでの実験も、100%成功しています。」
「そうか。」
圭一さんは空を仰いだ。小さな白い光がわずかにぽつぽつと瞬いている。
「もし成功したら、俺の方では手に負えない。今野さんに任せていいかな。」
「ええ、もちろん。私の将来のためにもなりそうですしね。」
今野先生はそういって、はにかんで見せる。圭一さんもほほえみ、また空へ視線を移した。
「これが最初で最後の実験になるな。
もっとも、終わった後、俺たちが無事かどうかは分からないけどな。」
今野先生は沈鬱な表情で足下を見つめる。
「今野さん、俺に万が一のことがあったら、遥歩を……。」
「馬鹿なことは言わないでください。」
いつにもまして厳しい口調で、今野先生は割って入った。
「責任を持って遥歩ちゃんを世話し続けると言ったのは河上先生でしょう?
それに、今はそれだけじゃない……
河上先生にとって、遥歩ちゃんは、それ以上の人であるはず。」
二人ともしばらく黙っていたが、圭一さんが「分かってる」とぽつりと呟いた。
噴水の水が止まった。大学にもようやく夜が訪れたのだ。
時折吹く風は冷たく、冬の香りをはらんでいた。
「いつか、遥歩にも本当のことを話すよ。」
圭一さんは立ち上がった。
「いつになるか分からないけどな。でも、そうだな、
俺の気持ちが固まったら、その時にでも。」
今野先生も立ち上がった。
「それじゃあ、いつになるか分かりませんね。
河上先生は優柔不断だから。」
人なつこい笑顔で今野先生が言う。
「そんなことはないさ」と言いながら、二人は坂を下り始めた。
南門付近で別れることとなる。
「それじゃあ、今野先生、実験の方はよろしく。
俺は遥歩のことがあるから先に帰るよ。
さっき電話では無事を確認したが、やっぱり心配だからな。」
「ええ。それでは、また明日。」
駐車場へ向かう圭一さんを、見えなくなるまで今野先生は眺めていた。
「あなたは今の遥歩ちゃんこそが本物の遥歩ちゃんになってしまっている。
やはり『彼女』とは会いたくないのね。」
今野先生は踵を返して、実験棟へ向かって歩き出した。
居間で凛ちゃんとバラエティ番組を観ていると、圭一さんが帰ってきた。
凛ちゃんも一緒だったことに一瞬驚いていたが、どこか安心もしているようだった。
「じゃあ、凛は帰る」と、荷物を持って立ち上がる凛ちゃんに、
「せっかくだから、ご飯も食べていきなよ」と勧めるが、
お母さんが心配するので帰ると言って聞かない。
圭一さんに一言「お邪魔しました」といって、ぺこりと頭を下げると、さっさと玄関に向かっていってしまう。
慌ててその後を追うわたし達を、圭一さんはぼんやりと眺めていた。
圭一さんがお風呂に入っている間に、てきぱきと夕食の準備をする。
今日は凛ちゃんと二人で作った−−といってもほとんど凛ちゃんが作ったのだが−−ので、
てっきり一緒に食べていくものだと思っていて、一人分余計に作ってしまった。
丁度支度を終えたところに、圭一さんが入ってきた。
「ビール飲む?圭一さん。」
いつもなら飲むと答えるが、今日は違っていた。
「いや、まだいいよ。それより、遥歩。少し話があるんだけど。」
いつにもなく真剣な表情だったので、わたしは少しこわばって、席についた。
「今日、何かかわったことはなかったか?」
「え?どうして知ってるの、圭一さん。」
なぜ圭一さんがあのことを知っているのかと、わたしは驚いて答えた。
「やっぱり何かあったのか。いや、俺は何があったのかまったく知らない。
ただ、俺の方でも一頓着あってね。で、どうしたんだ?」
わたしは今日の出来事を掻い摘んで説明した。
わたしが人質に取られそうになったことはもちろん、
圭一さんが犯罪に絡んでると言っていたことや、凛ちゃんが煙幕を持っていたことまで説明した。
すると、次第に圭一さんの顔色が青くなっていき、
最終的には「無事でよかった」と言いながら息をつき、心から安堵しているようだった。
凛ちゃんの奇行にはいささか驚いていた。
話し終えると、圭一さんは腕を組んでなにやら考え込んでしまった。
一方的に答えただけではわたしの方にも不安が残るので、わたしは声を掛けた。
「圭一さん、わたしも訊きたいことがあるんだけど。」
「ああ、なんだ。」
「圭一さん、本当の名前、なんていうの?」
そう言った途端、圭一さんは体をびくりとさせたが、次の瞬間には平然として、「何言ってるんだ?」と応えた。
「今日会った、レベッカっていう女の人が、圭一さんには本当の名前があるって言ってたの。
年齢も偽ってるみたいなことも言ってた。わたしはそんなこと信じなかったけど、ちょっと気になったから。」
わたしはなるべく焦る気持ちを抑えて、平静を装って言った。圭一さんはすぐ「でまかせだよ」と言った。
問いつめようかとも思ったが、思いとどまった。下手なことを言って、この間みたいな目に遭うのはごめんだからだ。
そうだ、圭一さんが正しいに決まっている。本人がそういうのだから間違いない。
圭一さんは圭一さんだ。年は26、大学で助教授を務めて、わたしをかくまって……。
心に一つひっかかりが残った。圭一さんはわたしをかくまっている?
何のためだかは分からない。ただ、特別な事情でわたしと一緒にいるというのは否めなかった。
だとしても、わたしはさらに言及するつもりはなかった。
何か余計なことを言って、これ以上今の関係を壊すことだけは嫌だった。
「圭一さん、最近わたし達の周りでなにかが起こり始めてない?」
わたしは率直な疑問を投げかけてみた。
難しい顔をして俯いていた圭一さんは、顔を上げていつもの笑顔で応えた。
「心配ないさ。なにも起きないよ。」
面と面を向かってこうもはっきり言われては、わたしはただ「うん」と応えるしかなかった。
……何か音が聞こえ始めた。何の音だろう。心臓の音だろうか。静かにとくん、とくんと脈動している。
別の音も聞こえだした。これは人の話し声だ。長い間聞いていなかった、人の声。
一人孤独に闇の中で永遠を数えている間には聞こえることのなかった、人の声。
体に冷たさが伝わってきた。何か冷たいものに包み込まれている感じ。
いや、違う。冷たいのはわたしの方だ。今段々と熱を帯び、限りある世界へ戻ろうとしている。
不意に、光を感じた。いくつもの光がわたしを照らしている。
瞼を閉じていても分かる。もう忘れかけていた、これが光というものだ。
最後に、これもまた忘れかけていた匂いを嗅ぎ取った。いつも嗅いでいた、わたしの嫌いな匂い。
わたしは花の匂いのほうが好きだった。そう、ここから外へ出れば、
草や木が生い茂る美しい幻想へ辿り着く。
幻想?幻想とはなんだろう。よく耳にしていた言葉。
にせものとは違う。でも本物でもない。わたしは本物の世界と幻想の世界を行き来していた。
旅立つのに必要なものはない。思い一つでわたしは旅立てた。わたしは今、どこにいるのだろう。
光が和らいでいった。わたしは戻ってきたのだろうか。幻想の世界に。いや、これが現実の世界だろうか。
「目を開けてごらん。」
聞いたことはなかったが、とても優しい声が聞こえた。ゆっくりと瞼を開く。
美しい世界が広がるかと思いきや、なんてことはない、殺風景な部屋の中だった。
「おはよう。気分はどう?」
そう言いながら女性はわたしのおでこに手をあてた。
温かい手だった。女性の後ろでは数人の白衣を着た人たちがなにやら騒いでいる。
「わたしは……誰……?」
女性は毛布を掛けてくれた。わたしは何も着ていなかった。
「あなたは、アリス。」
毛布にくるまれ、女性に抱きかかえ上げられる。
不意に体が地面から離れたことで、わたしは怖くなり、女性の白衣の裾を掴んだ。
だが、女性に抱かれていることで、わたしは徐々に安心できた。
「あなたの名前はアリス。……水奈月アリスよ。」
4.
翌朝は久しぶりに朝から良い天気で、ぽかぽかと温かかった。
今日みたいに大学の休みの日は心ゆくまで眠っているところだが、
今日は珍しく朝から起き、掃除でもしようかと考える。
圭一さんは休みだというのに仕事で大学へ行ってしまった。
こんな日は二人で出かけるのにはもってこいなのに、世の中うまく行かないものだと思う。
自室を片付け、居間とトイレ、玄関も掃除をする。
洗濯物も干し、ベランダの枯れ葉も掃きとる。
その後は圭一さんの部屋だ。
圭一さんのいる日は圭一さんの部屋は掃除できないので、
今日は思う存分綺麗にすることができた。
おかげで終わったのは昼を回り、朝食を摂っていなかったためわたしのお腹も悲鳴を上げていた。
天気も良いことだし、ふらりと散歩がてら昼食を調達しに行く。
圭一さんからは外に出るときはなるべく注意しろと言われていたが、
ご機嫌なわたしは今日みたいな日には別に何も起こらないだろうと勝手に決め込む。
なじみの古本屋で本を物色していると、空腹なのも忘れて没頭してしまい、
危うくその場で倒れそうになってしまった。
数冊購入し、今度は昼食を求めて、数十メートルと離れていないいつものコンビニへ行く。
そしてそこには相変わらずゆかりちゃんがいた。
「やっほー、ゆかりちゃん。」
「あら、遥歩。随分ご機嫌だこと。」
買った本の入っているビニール袋をぶんぶん振り回しながら入ってきたので、ゆかりちゃんは少したじろいだ。
「いやあ、天気が良いと心も晴れ晴れするよねぇ。」
「まったく。いい気なもんよね。私なんか、今日デートの約束してたのに、
無理矢理かり出されてこの様……。」
そう言ってゆかりちゃんはがっくりと肩を落とす。
「あらあら〜、水奈月さんじゃありませんか〜。」
突然ひょっこりとモモちゃんが現れた。
もっとも、この身長なら棚に隠れて見えなかったというだけかも知れないが。
「おっす、モモちゃん。」
「だ〜か〜ら〜、オーナーって呼んでくださいようぅ〜。」
そう言ってゆかりちゃん同様、肩を落としてしなだれる。
「モモちゃん、お腹ぺこぺこなの。何か頂戴。」
「それはダメです〜。店が成り立たないですから。」
「じゃあ、買っていくから少しまけてよ。」
「そうですね〜、では1万円以上買ってくれたら……って、どこかでこのやりとりしませんでしたっけ?」
「やだなぁ、気のせいだよ。」
「そうでしょうか。年はとりたくないものです〜。」
と言いながら、ぽりぽりと頭をかく。
「遥歩、冷やかしに来たんなら私の代わりに働いてってよ。」
「冷やかしじゃないよ。ちゃんと買い物だって。」
機嫌の悪いゆかりちゃんには同情したが、わたしもこういう日の午後はのんびりと読書に没頭したかったため、
仕事の邪魔にならないように買い物を済ませて帰宅した。
お腹もふくれ、ぽかぽかと暖かい昼下がり。こういうときこそ、至福の時間というのだろう。
些細な悩み事なら溶けて流れていってしまいそうだ。紅茶を淹れ、先ほど買ったチーズケーキを用意し、
これまた先ほど買った本を読み始める。たいしたことでもないのに、
随分と裕福になった気がして顔がほころんだ。
どれだけ時間が経っただろうか。いつものように読書に没頭していたが、一区切りついたので紅茶を一杯すする。
すっかり冷め切っていたが猫舌のわたしはあつあつの紅茶よりは、
ある程度ぬるくなったもののほうが飲みやすくて好きだ。
チーズケーキを一口分切って口へ運ぶ。コンビニのものとはいえ、味は上乗で思わずため息をつく。
再び本に目線を落とした時だった。なにか不思議な音が聞こえた。
最初は空耳かとも思ったが、どうやら誰かが歌っているらしい、止まることなく響き続けている。
よく耳を凝らして聞かないと聞こえないくらい小さな声だった。
だが、その声は人のものとは到底思えない、不思議な声だった。
不意に鳥肌が立った。気味が悪いが、いつまでもこんなのでは読書に専念することができない。
立ち上がって部屋を眺める。窓はすべて閉まっている。居間の扉も閉じたままだ。
というよりも、その声は部屋の中から聞こえているようだった。
CDコンポに目をやる。当然、スイッチも入っておらず、それが犯人ではない。
わたしはますます気味が悪くなった。
もう一度部屋を見渡す。ある一箇所でわたしの視線は固まる。
不思議な声。不思議な花。まさか……そんなことあるわけない。
頭に浮かんだ考えを両手ではたいてもみ消す。
だが、ほかに原因になるようなものは見当たらない。
耳を澄ませてもう一度その声に集中する。まだ響き続けている。
人の声には思えない。では何の声だろうか。花が歌うとでもいうのか。
まさか、とは思いながら、小物台に近づく。
余計な雑念を全て捨て、声だけに全神経を集中させる。
花の前に立つ。相変わらず不思議な花だ。先日咲いた花でさえ透明で、向こうが透けて見える。
わたしは「まさか」と呟きながら、そっと花に顔を近づける。
匂いはしなかった。だが、そんなことはどうでもよかった。
確かに、不思議な音はその花から発せられていた。
「は、花が歌ってる!?」
わたしは心臓が破裂するかと思うほど驚き、叫びながら一歩後ずさった。
次の瞬間、目の前が真っ白になる。いつか視た、脳裏に焼き付いている、あの光景がまた蘇った。
どこまでも白い、終わりのない世界の中、その少女はわたしの真正面に立っていた。
少女は目を開けた。そして口元が動いた気がした。
だが、なにを言っているのか聞き取る前に、わたしの意識は遠のき、その場に倒れ込んでしまった。
柔らかな日差しが注ぐ中、花はいつまでも歌い続けた。
誰かが名前を呼んでいる。はじめは小さかった声も次第にはっきりと聞き取れるようになってきた。
優しい声で呼びかける。遥歩、水奈月遥歩……。
ふと、違和感に襲われた。遥歩?それは誰のことだろうか。
回りは闇に包まれ、白くぼんやりと光るわたしだけが、その世界の中にいた。
どちらが上かも分からない。立っているのか、寝ているのかも分からない。
そこがどこだかも分からない。ただ、自分がどこかに存在することだけは確かだ。
また名前を呼ぶ声。遥歩……それはわたしのことか?
ゆっくりと目を開く。瞳に映るのは闇だけ。
それでもどこか、出口を求めてわたしは彷徨い続ける。
一体いつからだろうか。しばらく前から、ずっと誰かに見られている気配を感じていた。
わたしは振り返った。誰もいない。
また前を見据える。だが、そこにも闇が広がるだけだった。
わたしは目を閉じて、自分の心を覗いた。
暗い闇が広がる中でも、わたしの心の中だけは光に満たされていた。
その中に、幾度か見たあの少女が立っていた。
小さな、あどけないまなざしでわたしを見返している。
わたしは一歩ずつ、ゆっくりと少女へ近づいた。少女はぱちぱちとまばたきをしながらじっとわたしを見ている。
わたしは少女に問いかけた。「あなたは誰?」
少女は応える代わりに、小さな手の平を差し出してきた。
今はまだ小さくとも、やがては立派な大人の手となり、
今はつかめない色んな物、自由、未来も、いずれは何でも手にすることのできる、魔法の手。
わたしも手を差し出した。一回り大きなわたしの手。少女もわたしも微動だにしない。
名前を呼ぶ声が聞こえた。もう時間だ。わたしは行かなくては。
少女は、わたしの差し出した手に、そっと小さな手を重ねた。
交わる手の平の中からまばゆい光が洩れだし、辺りを包み込む。
光の中、消えゆく少女にわたしは問いかけた。「わたしは一体誰?」
目が覚めてもしばらくは意識がもうろうとしていた。気がついたときには、わたしはソファに寝かされ、
圭一さんに膝枕をしてもらっていた。何度か目をしばたかせて、「圭一さん」とぽつりと言った。
わたしの意識がはっきりしたようで、圭一さんは安心した笑みを見せた。
「よかった、心配したんだぞ。帰ってきてみれば遥歩が床に倒れてて、
慌てて気がつかせたものの意識がはっきりしてないみたいだったし。
でも、もう大丈夫そうだな。」
圭一さんはそう言いながら、優しくわたしの頭をなでる。心地よさに思わず瞼を閉じる。
辺りは綺麗な夕日にに染められており、目を閉じるとオレンジ色一色になった。
妙に体が軽く、心も晴れた気分だった。ずっとこうしていたかったが、
次第に先刻の記憶が蘇ってき、落ち着いてなど居られなくなった。
「圭一さん。」
「ん?」
圭一さんは手を止めて、わたしを見返してきた。
夕日に照らされたその顔にはなんだか疲れが浮かんでいるような気がしたが、
逆光に照らされているせいだと考え、あえてそのことは言わなかった。
「あの、ちょっと、信じてもらえないようなことなんだけど……。」
わたしは躊躇いがちに切り出したが、圭一さんはなにも言わず耳を傾けていた。
「さっき、あそこの台に置いてある花が歌ってた気がするの。本当なの。
明らかに人の声じゃない、不思議な声だった。
そうしたら、すぐに頭の中が真っ白になっちゃって、
そのまま気を失ったみたい。」
わたしは横になりながら、不思議な花を指さした。
その指先を、圭一さんの目線が追う。
「それに、この間だって、葉っぱが透けてて不思議に思ったから、
ちょっと触ってみたんだけど、そうしたら頭に電気が流れたみたいな感じになって、
その直後に不思議な光景が頭に浮かんだし。」
「そうか」と呟いて、わたしの頭をそっとソファにあずけると、圭一さんは花の前に歩み寄った。
今は当然のように、静かに花を天に向けて鎮座している。
わたしも体を起こしてソファに座り直す。
少し頭がくらくらする気がしたが、すぐ直るだろうと気にはしなかった。
圭一さんはしばらく鉢に手を添えてから、ゆっくりと話し出した。
「この花はね、人に幻を見せる花なんだ。エルフレイナっていう学名なんだけど、
日本では冬幻想花って呼ばれてる。その名の通り、冬に咲く花なんだけど、
不思議なことに、一度咲いたらその年の冬を越すまで決して花を閉じないんだ。」
そう言えば、いつ見ても確かに花は開いたままだった。たとえそれが夜中でも。
「まあ、幻を見せるって言うのはただの噂だけどね。
でも、特別な素質を持った人なら、花と同調して幻を見ることが出来ると言われてる。
そうじゃなくても、この花を持つ人の回りには色々不可思議なことが起きてきたという歴史もある。
それに、この花の在処は今でも謎に包まれてるんだ。俺はとある人から譲って貰ったんだけど、
世界でも数輪あるかどうか。それだけ珍しい花でもある。」
冬幻想花……なんだか不思議な響きがする。それに幻を見せるというのは……。
ただ、それが本当なら、わたしの身に起こった怪現象も、幻だと言って片づけられる。
「それじゃあ、わたしが見たのもその花の見せた幻なの?」
圭一さんは振り返ってこちらへ戻って来ながら言った。
「そうかも知れないな。遥歩は昔からファンタジックなところがあるから、
見てもおかしくないかもな。」
昔から……少し引っかかったが、そんなことはすぐに忘れてしまった。
圭一さんは再びわたしの隣に腰掛け、じっとわたしを見つめてきた。
突然のことなのでわたしは恥ずかしくなって目をそらしてしまう。
圭一さんはそっとわたしの首筋へ手を添える。
わたしはそれを眺め、腕を伝いながら次第に圭一さんの顔へ視線を移した。
「遥歩は、あまりあの花に近寄らない方が良い。」
いつもの優しい微笑を浮かべ、圭一さんはわたしに言った。
鼓動が高鳴るのを感じる。
「花に限らず、一人の人物、一つの物体が、その人の人生を大きく変えてしまうことがある。
……昨日ははぐらかしたけど、もしかしたら、近いうちに何かが起こるかも知れない。
だけど、遥歩だけは俺が必ず守る。だから、心配しなくても平気だ。」
すっと体が圭一さんに吸い寄せられる。
気がついた時には、わたしは圭一さんに抱かれていた。
暖かい体。優しい匂い。ずっと昔に感じた、不思議な安らぎ。
自然と一縷の涙が頬を伝った。
「遥歩は誰にも渡さない。絶対に。」
耳元でそう言った圭一さんの口調には、断固たる意志が込められていた。
夜、ビールの注がれたコップを片手に、圭一さんは自室へ入った。
わたしが掃除をしたばかりなので、床も机上まだ綺麗だった。
もっとも、圭一さんはわたしと違ってむやみにものをその辺に置いたり捨てたりしないので、
部屋がちらかるといったことはほとんどない。掃除をしたといっても、
積もっていたほこりを取り除いたくらいだ。
圭一さんは机に腰掛け、ノートパソコンのスイッチを入れる。静かな回転音が響きだした。
起動するまで頬杖をつきながら、ちびちびとビールを流し込む。
注いでからだいぶ時間が経つが、夜ともなれば肌寒く感じる今の気候ではぬるくなることはなかった。
起動すると、おもむろに文字を打ち込む。だが、2,3行書いては手を止め、
後に続ける文章を考える。
口で言うのも難しいが、文字にして書き出すのも一苦労だなと苦笑する。
また手を動かし始めた。余計な雑念を捨て、自分の思っていることをそのまま書き出す。
キーを叩く単調な音が、夜明け間際まで鳴り続けた。
第四話
第六話